誰が映画を畏れているか - 蓮實重彦

誰が映画を畏れているか 蓮實重彦

Add: idokiwon9 - Date: 2020-11-26 20:08:23 - Views: 3545 - Clicks: 9391

誰が映画を畏れているか ¥ 1,220 蓮實重彦 山根貞男 、講談社 、1994/08/09 (H6) 、1. 蓮實重彦を知らない批評家はモグリだ。と言われているのかどうか知らないが、その言説の影響力は絶大なものであったことが、例えば木下千花の「読者であれ学生であれ、少なくとも映画を見る経験そのものに関して、このように強い内面化を伴う影響力を行使した映画批評家が世界映画史上、他に存在しただろうか」(木下千花「女こどもの闘争」,『ユリイカ10月臨時増刊号』,167)との感嘆を隠そうとしない賛辞から十分にうかがい知ることができる。その一方で、蓮實重彦が「演劇を見る経験そのものに関して影響力を行使した」という話は全く聞かない。それはもちろん、映画と小説と野球以外のジャンル全般に当てはまることかもしれないが、一般に演劇と映画は、舞台空間かスクリーンかほどの違いしかないと思われ、どちらにせよ俳優が出てきてドラマが演じられる表象芸術と理解されているのではないだろうか。なにしろ「劇映画」という語彙すら私たちは持ち合わせているのであるから、両者はほとんど混同されていると言ってもいい。 結合双生児のように切っても切れない関係にある演劇と映画だが、蓮實がときに「演劇」の語を書きつけるときは、蓮實の志向する「映画」の水準に比して疑問符を付けざるをえないような、ある意味では無防備に19世紀的な自然主義リアリズムが前提されている。カイ・ムンクの4幕ものの舞台劇を原作にしたカール・Th・ドライヤーの名高い『奇跡』について。 だから次のように言うことが出来る。蓮實重彦は演劇を知らなかった。あるいは蓮實重彦は演劇をあまりにもよく知っていたがゆえに、演劇的知覚からは決して遭遇することのかなわない映画的体験の意味を論じてみせた稀有な人だった、と。ならば裏返して、次のような仮説を立てうるのではないか。 蓮實の批評的視座とは「演劇的」と言いうる体験の位相を抑圧することで成立した。蓮實重彦の功罪とは「演劇」を論じなかったことである。 実際、1936年生まれの蓮實重彦は世代的にもアングラ・小劇場演劇を体験していておかしくない人である。アングラ・小劇場パラダイムに並走した批評家たち―管孝行・佐伯隆幸・大笹芳雄・扇田昭彦など―は40年代初頭生まれであるから、蓮實もほぼ同世代と言っていいくらいだ。そこにはもちろん、60年安保の政治的敗北を代補するアングラ演劇のロマン主義的な「日本人」への回帰を蓮實が嫌ったのではないか、. 蓮實の隠蔽と露出の相互作用を模倣する官能性は、純粋に「映画的なるもの」の臨界点を指し示す。比喩的に言えば、蓮實は映画=「瞬間の運動」そのものになったのである。だとするならば、蓮實は決して「空間」に依拠する演劇的な体験の位相を掴み取ることが出来ない、つまりは「演劇を論じることができない」のは自明の理ではないか。 渡辺守章は、スクリーンに投影された映像のごとく「空間の記憶」を忘却していった新劇の劇団をラディカルに批判したアングラ・小劇場演劇の立役者たる唐十郎の赤テント(1967〜)について次のような言う。 もちろん、それが「映画」のように複製技術時代以後の知覚の条件を引き受けていないと批判することは、常に可能だ。そもそも映画と演劇が完全な二項対立を作ることそれ自体も疑わねばならないことだとした上で、演劇の基底にある「空間の記憶」を奪還しようとしたアングラ・小劇場のパラダイムは蓮實が映画館の〈場所性〉を映画固有の条件としないことと綺麗に対称的だ。 一方、これが記憶を媒介に「肌と肌がふれあう」ような場所で神話的に―例えば私達は土着の日本人だ―集団を組織してしまう演劇の制度的な危うさを露呈させていることも疑い得ない。しかし、だからといって、その集団的感染性に身体を閉じることは、蓮實がまさに批判するように「自分が何に犯され、何に捕われてゆくかを忘れながら「方法」を志向する楽天」(『詩学』505)を意味するのではないか。 なにより映画的な知覚の組織化によって忘却された演劇的な「空間」は、いまやインターネットを介してイメージが集積していく「テレ-空間」として回帰してきている。例えば渡邉大輔が『イメージの進行形』で論じている観客のミメーシス的体感を触媒に断片化された映像が増殖していく―例えばニコニコ動画の「踊ってみた」シリーズのように―「映像圏」の議論は、映画の外部にある日常的なコミュニケーションのネットワーク=「テレ-空間」に依拠するものだろう。回帰してきた演劇的な「テレ-空間」に土地の精霊はやってこないが、少なくとも「瞬間の運動」が絶えず更新されていくリニアな〈いま〉の位相が、コミュニケーションを介してイメージがシャッフルされ無根拠に書き換えられていく異種混交的な〈いま〉の位相へと変容したことを告げている。 蓮實重彦の功罪とは、まさに空間の記憶に束縛された演劇では不可能な「. 蓮實重彦と映画の誘惑――〈事件の現場〉から / 黒沢清+万田邦敏+青山真治 蓮實重彦を回遊する 若き日――蓮實先生の思い出 / 周防正行 映画と手と指先をめぐる記憶 / 塩田明彦 「映画原体験」としての蓮實ゼミ / 中田秀夫. 全体的に使用感があります。小口に汚れがあります。簡単な確認はしておりますが、全てのページへ完全な確認は行っておりません。目立つ破損等は写真にあげておりますが、完全ではございません。ヤケ・シミ・折れ・使用感・書き込み・線引き等有るものとお考えください。特別説明が無い. そんな瞬間を映画で体験したこともなかったので、誰もが映画生成の瞬間に立ち会っているかのように興奮するしかない。 では、その主題は何か。ヨーロッパである。ギリシャ以来の文明をはぐくんできた地中海、といってもよい。. 「アメリカが日本の敵になるのですか?」。そんなことなどありえないと思っていた神戸に住む貿易商の妻の聡子(蒼井優)は、夫の優作(高橋.

誰が映画を畏れているか 蓮実重彦,山根貞男 出版社: 講談社 サイズ: 248,14P 20cm ISBN:発売日: 1994/6/29 定価: ¥1,922. 蓮實重彦、町山智浩、淀川長治の存在 ――そんな誰もが評論家になりうる時代に、初の単著として刊行されたのが、『映画. 作り手たちへの恋文 8. 黒沢清と蓮實重彦の『現代アメリカ映画談義』によると、イーストウッドは ストーリーと感情の山場をずらすということを意識的に行っている作家らしい。 ストーリーの山場と感情表現を一致させることは映画やドラマではセオリーだ。.

蓮實:映画評論家としての私が具体的にどんなことをやってきたのか、それをあまり深く考えたことはなかったのですが、先日刊行された『映画の呼吸──澤井信一郎の映画作法』を読んでいて気づいたことがあり. 岡田 今はスマホで映画を撮影できるし、スマホで映画を見れる時代です。そんな中でも、劇場で映画を見る意味はあるとお考えですか? 蓮實 自分より見ているものが小さいと、軽蔑が働くんです。. 『誰が映画を畏れているか』(1994年6月、講談社) 共著:蓮實重彦 『つげ忠男の世界』(1994年、北冬書房) 『任侠映画伝』(1999年2月、講談社) 共著:俊藤浩滋 『映画監督深作欣二』(年7月、ワイズ出版) 共著:深作欣二.

誰が映画を畏れているか 蓮實重彦, 山根貞男著 講談社, 1994. 誰が映画を畏れているか 山根貞男共著 講談社、1994 リュミエール元年 ガブリエル・ヴェールと映画の歴史 編著 筑摩書房、1995 文明の衝突か、共存か 山内昌之共編 東京大学出版会〈UP選書〉、1995. 蓮實重彦 はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から年まで第26代東京大学総長を務める。. 誰が映画を畏れているか フォーマット: 図書 責任表示: 蓮實重彦, 山根貞男著 出版情報: 東京 : 講談社, 1994. 製品名: 誰が映画を畏れているか: 著者名: 著:蓮實 重 著:山根 貞男 発売日: 1994年06月10日: 価格: 定価 : 本体1,748円(税別) isbn:. 蓮實重彦コメントの『人数の町』(監督:荒木伸二)を見る。時制や視点が行ったり来たりして進んでいないような錯覚。それでいて大筋の先は読める。そして収まるべきところに収まる。目の前にいた人物の消失とかベタ過ぎる繋ぎかもしれない。映画が長く感じる原因にもなっている気は. 年以降の映画で蓮實重彦が徹底的に批判した映画(ツリー・オブ・ライフ以外)とベタ褒めした映画を教えて下さい。内容もお願いします。 自分が読んだことある著作の中ではラース・フォン・トリアーを徹底的に批判してましたね。文面については覚えている範囲になりますが、『ドッグ.

誰が映画を畏れているか - 蓮實重彦 映画と社会 9. 蓮實重彦 共編著 『映画となると話はどこからでも始まる』淀川長治、山田宏一と鼎談 勁文社 1985『オールド・ファッション-普通の会話-(東京ステーションホテルにて)』江藤淳との対談 中央公論社、1985、中公文. それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。 そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。 語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の. なぜならアウラは、人間が、いま、ここにあることと切り離せない」からだ。そして、「これこそ映画の働きである」(『複製』163)。 映画芸術において撮影された俳優は物象化されたマチエールである。演劇の産出する〈現実〉は俳優の身体的な技術から生み出されるのに対して、映画の〈現実〉をつくりだすのは俳優ではなく、フィルムを編集する監督である。そこで俳優はバラバラとなった身振りや顔の断片的な記号に過ぎず、あくまでもモンタージュされた手続きの結果として映画はある。つまり、演劇から映画へと移行するメディア環境は、〈いま・ここ〉に存在するアウラ的身体から、〈いま・ここ〉がバラバラに分解されるモンタージュ的身体へと「人間」の見方を変容させたのである. 蓮實 重彦,山根 貞男『誰が映画を畏れているか』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約1件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。. 映画『去年マリエンバートで 4kデジタル・リマスター版』に寄せられた著名人のコメントが発表された。 1961年に『ヴェネチア国際映画祭』金. ここだけ抜き出すと蓮實重彦が言っていることは選民思想っぽくも見えるが、この本を通して読むと、蓮實重彦は自分の映画の見方を強く信じた上で、現在の世界の映画批評や評価軸に対して異を唱える人が誰かいないといけない、と考えていることが.

人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った. 蓮實重彦さんの東大時代の教え子って誰ですか?あと東大で蓮實重彦さんの講座を受け継いだ人は誰ですか? 映画監督では「リング」の中田秀夫、作家の松浦寿輝、スポーツライターの玉木正之あたりが有名。フランス文学などの学者はいっぱいいる。. 『誰が映画を畏れているか』 山根貞男共著 講談社、1994 『リュミエール元年 ガブリエル・ヴェールと映画の歴史』 編著 筑摩書房、1995 『文明の衝突か、共存か』 山内昌之共編 東京大学出版会〈UP選書〉、1995. 泰流社 B6ハードカバー版 84年3刷状態:並、カバーふち極小切れ。小口少経年やけ。複数落札の場合、同梱できますが、落札者都合のキャンセルが出来ない為、まとめて取引はお受けしていません。1点ずつのお支払いお願いします。お取引の詳細を記してますので、必ず自己紹介欄もご覧. つとに知られるように、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で問題にするのは、複製技術メディアがドラスティックに変化させる知覚のパラダイムである。メディアはその時代固有の社会的条件に応じて、人間の知覚を組織していく。機械的な複製技術の登場は、芸術というメディアが生じさせる知覚のあり方を根本的に変えてしまう。その変化を端的に示すのが「アウラの消滅」である。 21世紀を迎えた昨今では3Dプリンターなどと言うものも出てきて複製技術をめぐる状況は本書が執筆された1930年代から飛躍的に進歩しているわけだが、機械的な複製技術がもたらすメディア論的な問題系はベンヤミンの本書を鏑矢とするものであり、いぜんとしてアクチュアリティを失ってはいない。そしてもちろん、機械的複製技術に依拠する営為である映画芸術が演劇に与えた計り知れない影響の爪痕はそこにくっきりと刻まれている。例えば、舞台俳優と映画俳優の違いについて。 公衆の前で演じられた演技の〈いま・ここ〉におけるアクチュアルな一回性は、カメラの前では時間的な一貫性も場所との親密な関係性も奪われて、ひとつのまとまりをもたない断片の集まりに破砕する。いわばドラマの始まりから終わりまでを主体的な意志/意図を持って役を生きる「俳優の身体」は疎外され、むしろブレッソンがラディカルに定式化したように主体的な意志/意図を抹殺し、撮影された事物と同じ資格でモンタージュ可能な「モデル」が映画の新たな記号論的現実を形成する。カメラを前にして「人間は初めて. See full list on school. フレディ・m・ムーラー監督の映画『山の焚火 デジタルリマスター版』に寄せた著名人のコメントが到着した。 1985年に発表され、『ロカルノ国際.

6 形態: 248, xivp ; 20cm ISBN:著者名:. 映画という複製技術に依拠した芸術形式の誕生は、限定された空間(共同体)の記憶から自由になる、つまりは説話論的な物語に依拠することなく、純粋な時間そのものを経験することが可能になったことを意味している。純粋な時間とは何か。1秒間に24コマの知覚体験が断続的に現れては破棄されていく「瞬間の運動」である。ゆえに映画は〈いま〉を更新し続けるモダニティの時間を知覚するメディアなのだと言うことも出来るだろう。すなわち、映画とともに空間の記憶―アウラ―から解放された時代において、時間が無限に更新/蓄積されていく終わりなき「瞬間の運動」がはじまるということなのだ。 だが、一体、筆者は何を言っているのだろう。正直なところ、筆者は今までそのように映画を見たことはない。いや、それよりも、そんな瞬間の運動を捉えきることが出来る眼球などあるのだろうか。ベンヤミンならば、この「瞬間の運動」は肉眼では捉えることの出来ない、カメラに語りかける「無意識に浸透された空間」を出現させると言うだろう。「ぼくらの駅や工場はこれまで、僕らを絶望的に閉じ込めるもののように見えていた。そこへ映画が出現して、この牢獄のような世界を、高速度撮影というダイナマイトで爆破してしまった」(『複製』175-176)。しかしその「瓦礫のあいだで、平静に冒険旅行を企てる」(176)ことなど出来るのだろうか。90分で129,600コマの瞬間を享受する視覚体験は人間の限界をすでに超えている。ましてやその累積を記憶に留めておくことなど、何をか言わんや。 そして私たちが驚くべきなのは、まさに蓮實重彦という批評家が人間的な視覚のスケールを軽く超えていくはずの「瞬間の運動」そのものと遭遇しようとしたこと、さらには「瞬間の運動」を模倣するエクリチュールでそれと官能的に戯れ記憶してみせたことである。 「正常な瞳は、とても映画など見ていられない」(254)と語る蓮實のアンヴィヴァレントは、肉眼では捉えることの出来ない「瞬間の運動」を字義通りに「見る」ことこそが映画を見ることであるにもかかわらず、それを知覚する瞳を持つことは決して出来ないアポリアによる。「瞳の廃棄。それは、映画にとっての記号論的な真実ともいうべきものだ」(254)という苦しげな叙述は演劇的な記憶が蓄積された空間の束縛を廃棄し、人間のスケールとは無関係な機械的複製の自動運. 誰が映画を畏れているか - 蓮実重彦 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお. Amazonで蓮實 重彦, 貞男, 山根の誰が映画を畏れているか。アマゾンならポイント還元本が多数。蓮實 重彦, 貞男, 山根作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 映画巡礼 - 蓮実重彦 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなの.

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